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相談援助の基盤と専門職 後期第6回 講義レジュメ<前半>11/1*社会福祉士養成学科

相談援助の基盤と専門職 後期第6回 講義レジュメ<前半> 2010/11/1
相談援助・ソーシャルワークの形成過程
*日本の場合(日本における社会福祉の史的展開)①
1 「家」制度と地域基盤の相互扶助
<解説>

・欧米では、近代的社会福祉の形成以前、相互扶助,慈善・博愛という援助形態があった。
 日本では「家」制度と村落共同体に基づく相互扶助の思想が根強い。それは、家や地域の実体が変化しても,近代から現代にいたる社会福祉制度と社会福祉援助技術に長く継承されている。
・古代律令制度から明治維新(恤救制度)にいたる日本の救済制度は中国の救済制度の影響を受けていた。中国の救済制度とは、家族制度と地域制度を基盤に,儒教や仏教の思想が背景にある。

*591年、聖徳太子による、四天王寺への四箇院(しかいん)の設置(と伝えられている)。
施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)、敬田院(けいでんいん)により、人々の救済に努めた。現代の福祉事業の先駆とされる。

●律令「戸令(こりょう)」(718年)の中の「鰥寡条(かんかじょう)」
 律令制度における福祉法制の条文であり、律令制度下における要援護者の範囲、私的扶養優先の原則等を定めていた。
 「鰥寡条」では、要援護の対象を、「鰥寡(かんか)」、「孤独(こどく)」、「貧窮(びんぐ)」、「老疾(ろうしち)」の範囲に属する者で、かつ自力では暮せない人を対象とした。「鰥」とは61歳以上で妻のいない者、「寡」とは50歳以上で夫のいない者、「孤」は16歳以下で父のない者、「独」は61歳以上で子のない者、「貧窮」は財貨に困窮している者、「老」は66歳以上の者、「疾」は傷病・障害のある者を指した。 また、援護の実施は、まず近親者による私的扶養であり、それが不可能の場合は地方行政に委ねる(現物支給)とするものであった。

<その救済対象者の限定のあり方は「恤救規則」において、踏襲されたとされる。私的扶養が期待できない人達で、貧窮、廃疾、老衰、病人、孤児というように対象を制限していたのである。また、私的扶養優先も、「人民相互ノ情誼」、「無告ノ窮民」の規定として踏襲された>

*行基(ぎょうき)(668―749)
 奈良時代、社会事業に尽力した法相宗の僧。父は百済から渡来した王仁の子孫にあたる高志)氏。和泉国(大阪府)に生まれ、15歳で出家。薬師寺の僧となり、土木技術の知識を学び、各地に橋を架け、堤を築き、池や溝を掘り、道をつけ、樋を渡し、船息(ふなやど)をつくった。また当時、税として納められた諸国の産物を都へ運ぶ運脚夫は帰国の途中餓死する者が多かったので、彼らを収容し救うための施設として布施屋(ふせや)を8か所つくったと伝える。また、行基は各地を周遊したが、民衆への伝道にも努め、彼を慕って従う者1000名にも及び、行基菩薩(ぼさつ)と称された。聖武天皇の大仏造営に際しては、絶大な民衆への影響力により、大仏造営費の勧進に起用された。745年(天平17)78歳で大僧正に任ぜられ、仏教界における最高の地位を占めた。僧正は以前からあったが、行基が大僧正の初めである。

*忍性(にんしょう) (1217―1303)
 鎌倉後期の律僧、社会事業家。房号は良観(りょうかん)。北山宿における救らいをはじめ、慈善救済に努めた。1252年(建長4)関東に下向。1262年(弘長2)、北条重時一族の支援を受け、鎌倉極楽寺を中心に戒律の復興を図り、西大寺流の発展に尽くした。また、療病所や馬病舎を設けるなど、社会救済事業の推進を図るとともに、寺院経営、出版事業にも手腕を発揮し、「生身の如来」と称された。

・室町時代には、キリシタンによって、教育活動、兄弟愛的慈善活動が行われるが,幕府の禁制によって長く弾圧された。

*コンフラリア confraria
 信徒が司祭の指導の下に、自主的に組織した信心会。信心を深め、キリスト教的慈善事業を主として行った。代表的なものにミゼリコルディア(慈悲)の組、サンタ・マリアの組、ロザリオの組、セスタ講などがある。

*セミナリオ seminario
 イエズス会の初等教育機関。1580年(天正8)に安土(あづち)と有馬に創設された。禁教令によって加津佐、八良尾(はちらお)、有家、天草、長崎と移動。1614年(慶長19)江戸幕府の禁教令によって閉鎖。

*コレジオ collegio
 ヨーロッパの教育制度を取り入れて行われた高等教育機関。1580年(天正8)府内(大分市)に創設されたが、禁教令によって山口、生月(いきつき)、千々石(ちぢわ)、有家(ありえ)、加津佐(かづさ)、天草(あまくさ)、長崎と移動。1614年(慶長19)閉鎖。

・江戸時代、商業資本の発達-貧富の格差の増大,天災や飢餓により増加してきた窮民に対して,幕府は「五人組制度」により相互扶助と連帯責任を強要した。

・本来,住民相互の自発的な相互扶助や連帯責任を国家が制度として強要した点は,日本の相互扶助の克服すべき課題を示唆している。

・江戸末期の,就業者の8割は農民だった. 
・江戸末期の儒学者の救済論は 1)救貧よりも防貧重視 2)家族制度を重視し,血縁,地縁,国主の順で責任をとる 3)村落共同体の救済を重視し都市貧困層には帰農,開墾奨励.


<レジュメ後半に続く>


*前回のレジュメ 下記をクリック
社会福祉士受験支援講座・教員日記 : 相談援助の基盤と専門職 後期第5回 講義レジュメ<前半>10/25*社会福祉士養成学科
社会福祉士受験支援講座・教員日記 : 相談援助の基盤と専門職 後期第5回 講義レジュメ<後半> 10/25*社会福祉士養成学科
社会福祉士受験支援講座・教員日記 : 相談援助の基盤と専門職 第5回講義 練習問題 10/25*社会福祉士養成学科




*用語解説は下記をクリック



*悲田院[ 日本大百科全書(小学館) ]
身寄りのない貧窮の病人や孤老を収容する救護施設。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝えるが、723年(養老7)興福寺に施薬院とともに建てたのが初見。光明皇后もまた施薬・悲田の二院を設けている。平安京には左・右京に官営の悲田院が置かれ、京中の病者・孤児などを収容した。833年(天長10)武蔵(むさし)の国司が行旅の飢病者を救うために置いた「悲田処」は布施屋に近い。民間の慈善事業として、鎌倉時代に忍性(にんしょう)が各地に悲田院などを設けたのが有名。

*施薬院(せやくいん) [ 日本大百科全書(小学館) ]
「やくいん」とも読む。貧窮の病人に薬を施して療養させる施設。聖徳太子が四天王寺に置いたと伝えるが、確かでない。723年(養老7)興福寺に悲田院とともに設けられ、730年(天平2)光明皇后が皇后宮職に設立。『延喜式(えんぎしき)』には、京中の路辺に倒れた病人を収容すること、それに用いる綿などの量を規定している。

*五人組
江戸時代、古代の五保制にならった近隣五戸を一組とする最末端の行政組織。成員は、町人では地主・家主、農民は水呑(みずのみ)まで含む。連帯責任を科し、初めキリシタン・浮浪人の取り締まりを主眼としたが、のちには法令遵守・治安維持、また貢租の完納などのための相互監察や相互扶助を目的とするようになった。
by yrx04167 | 2010-11-01 12:29 | Comments(0)