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相談援助の基盤と専門職 ソーシャルワークの歴史7 隣保相扶、恤救規則、棄児養育米、感化救済事業、下層社会とは 片山潜、石井亮一

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相談援助の基盤と専門職など
 各科目共通・ソーシャルワークの歴史 重要ポイント7


日本の社会福祉・ソーシャルワークの歴史 1
相談援助の形成過程
 日本の場合  ―第二次世界大戦以前
1 「家」制度と地域基盤の相互扶助

<解説>
・欧米では、近代的社会福祉の形成以前、相互扶助,慈善・博愛という援助形態があった。
 日本では「家」制度と村落共同体に基づく相互扶助の思想が根強い。それは、家や地域の実体が変化しても,近代から現代にいたる社会福祉制度と社会福祉援助技術に長く継承されている。

・古代律令制度から明治維新(恤救制度)にいたる日本の救済制度は中国の救済制度の影響を受けていた。中国の救済制度とは、家族制度と地域制度を基盤に,儒教や仏教の思想が背景にある。

*律令「戸令(こりょう)」(718年)の中の「鰥寡条(かんかじょう)」
 律令制度における福祉法制の基本的な条文である。これは、古代法制における要援護者の範囲、私的扶養優先の原則等を定めたものである。
 「鰥寡条」では、古代法制における要援護対象者を、「鰥寡(かんか)」、「孤独(こどく)」、「貧窮(びんぐ)」、「老疾(ろうしち)」の範囲に属する者で、かつ自分では暮せない人を対象とした。
 「鰥」とは61歳以上で妻のいない者、「寡」とは50歳以上で夫のいない者、「孤」は16歳以下で父のない者、「独」は61歳以上で子のない者、「貧窮」は財貨に困窮している者、「老」は66歳以上の者、「疾」は傷病・障害のある者を指し、律令制度下では、要援護ないし要救済対象の客観的属性は、この範囲とされた。

 また、援護の実施は、まず近親者による私的扶養であり、それが不可能の場合は地方行政に委ねるとするものであった。

*その救済対象者の限定のあり方は「恤救規則」において、踏襲されたとされる。私的扶養が期待できない人達で、貧窮、廃疾、老衰、病人、孤児というように対象を制限していたのである。
 また、私的扶養優先も、「人民相互ノ情誼」、「無告ノ窮民」の規定として踏襲された。

・室町時代には、キリシタンによって自然科学的方法を取り入れた兄弟愛的慈善活動が行われるが,幕府の禁制によって長く弾圧された。

・徳川幕府は、幕府と藩の二重体制で租税方式をとえい、商業資本の発達を余儀なくした。
資本主義の台頭と貧富の格差の増大,天災や飢餓により増加してきた窮民に対しては,「五人組制度」により相互扶助と連帯責任を強要した。
 本来,住民相互の自発的な相互扶助や連帯責任を国家が制度として強要した点は,日本の相互扶助の克服すべき課題を示唆している。

・江戸末期の,就業者の8割は農民だった. 
・江戸末期の儒学者の救済論は 1)救貧よりも防貧重視 2)家族制度を重視し,血縁,地縁,国主の順で責任をとる 3)村落共同体の救済を重視し都市貧困層には帰農,開墾奨励.

2 産業革命後の貧困問題と社会改良思想の先駆的実践
<ポイント>
 日本での個別援助技術、集団援助技術、地域援助技術の原型となった先駆的活動とは、山室軍平の廃娼運動による婦人保護事業、留岡幸助の家庭学校(1899年)による感化事業、片山潜の東京神田の「キングスレー館」(1897年)でのセツルメント活動などが挙げられる。
<解説>
・明治維新後、急速な産業革命・近代化の背後で,貧困に伴う生活問題は増大し、都市の貧困地区の形成,劣悪な労働条件,健康破壊や非行・犯罪などが多発した。また、所謂「身売り」、身分差別や捨て子の問題など、人権問題も深刻化していた。
・明治2,3年前後、江戸時代の下層社会を母体にして、都市の細民街が形成された.ホームレス・下級職人・日雇・零細行商人・零細自営業者など.
 維新の政治的変革から生まれた、貧困者、住居喪失者が増え,士族の失業問題が深刻さを加えた. 
諸藩は旧藩士を農工商業に従事させ,窮乏から更生させようとしたが、小規模な奨励策にとどまるものが多かった.

*明治4年 棄児養育米の達
 0歳~15歳までの棄児に年7斗の米を支給

*1874(明治7)年「恤救規則」が制定-
 農民一揆の激増を機に制定された、日本初の救貧法・制度である。
◎恤救規則とは、1874年に府県に出された通達(明治7年太政官達162号)であり,窮民に対する国による救済策を示したもの。この規則においては「人民相互ノ情誼」が強調され,生活困窮者に対しては血縁・地縁による相互扶助を第一に優先させることを旨としている。公的救済は、家族の扶養を受けられない者に対象を制限し,極貧の労働不能者,70歳以上の老衰者,病者,13歳以下の子どもに対して,一定限度の米(その後,米代に変わる)を支給するものであった(1年に1石8斗、1日5合弱)、50日分の米価を限度として現金給付)。

*1879(明治12) 京都府立盲唖院設立(盲児,聾児への職業教育)

*1880(明治13) 楽善会盲唖院開設(盲生は鍼・きゅう・按摩や音楽,唖生は裁縫などの職業教育中心)

*1880(明治13)年、東京YMCAをはじめとする青少年団体の集団援助活動。

*1887(明治20)年、石井十次によって岡山孤児院は、「孤児教育会」として設立。
 「家族制度(現在の小舎制)」の導入、里託児制度の設置、非体罰主義、海外をも巡回した募金事業を行なった。濃尾震災、東北三県凶作などの孤児を収容し、「孤児無制限収容」方針発表後、一時1200人規模の施設となった。その後、入所児童の農業的独立のために、宮崎県茶臼原へ全面移転し、1926(大正15)年に解散した。
 孤児院の他に石井十次は、大阪「愛染橋保育所」など、セツルメント的な事業なども試みた。

1897(明治30)年、片山潜のセツルメント「キングスレー館」設立
 キングスレー館とは、片山潜がアメリカにてキリスト教社会主義,社会問題を研究し、帰国後,1897年3月、東京の神田三崎町にグリーンの支援を得て設立した日本の先駆的セツルメント施設である。琴具須玲館とも表記。
 「基督教社会事業の本営」として,青年倶楽部,講演会,大学普及講演,西洋料理,英語,市民夜学校,職工教育会など労働者教育型の事業を展開した。労働運動,社会主義の方向性や当時の社会状況の困難から1910年代に入り活動を終えた。

*1899(明治32)年、留岡幸助の家庭学校(教護活動)
 
*明治44年、山室軍平『公娼全廃論』

*1899年、滝乃川学園を石井亮一が創設した。
 石井亮一は、セガンの影響からこの学園において,精神薄弱児教育の父となった.

*1899(明治32) 横山源之助『日本之下層社会』

●1899(明治32)行旅病人及び行旅死亡人取扱法制定(現行法)
第一条行旅病人ト称スルハ歩行ニ堪ヘサル行旅中ノ病人ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者ヲ謂ヒ行旅死亡人ト称スルハ行旅中死亡シ引取者ナキ者ヲ謂フ.
    2 住所、居所若ハ氏名知レス且引取者ナキ死亡人ハ行旅死亡人ト看做ス.
第二条行旅病人ハ其ノ所在地市町村之ヲ救護スヘシ.
   2 必要ノ場合ニ於テハ市町村ハ行旅病人ノ同伴者ニ対シテ亦相当ノ救護ヲ為スヘシ

●1900(明治33)精神病者監護法
 精神病者の公的な監禁を禁じたが、自宅の座敷牢などで「私宅監置」が認められていた.

●1890(明治23) 恤救規則改正案として「窮民救助法案」が政府から帝国議会に提出されたが不成立。

●1897(明治30) 恤救法案、救貧税法案が議員から提出されたが廃案(貧富の融和を図る目的)

●1900(明治33)年  感化法の制定
 小河滋次郎,留岡幸助らの努力により,1900年に制定された非行少年の教育保護を目的とした法律。不良少年,犯罪少年,親による懲罰として懲戒場に入れられる少年などの処遇機関として,感化院の設置を定めている。しかし,感化院が全道府県に設置されたのは,1915年のことであった。1933年に少年教護法に改正され,1947年,児童福祉法に吸収された。

●1902(明治35) 救貧法案提出するも廃案。
 政府委員井上友一は反対して,義務救助にすれば惰民を生み貧民を増やし国費の乱用となる,恤救規則で救済できないものは隣保相扶,私人の慈善事業で救貧すればよいとした

●1908年 感化法改正

*明治42年 内務省は成績優良な私設慈善団体に奨励金を交付(隣保相扶を強調し民間慈善を奨励)

*明治44年2月,「施薬救療のために」150万円の下賜。
 「恩賜財団済生会」設立の発端となった.大正元年の大喪に際して下賜と恩赦,3年の東北凶作には60万円の下賜,5年の皇太后逝去にも下賜があった.

 その後、昭和7年の救護法実施により、生活困窮者を対象にした医療保護は救護法によるとされたが、,受給する条件が厳しかったので,不十分な対応しかできなかった.その為、済生会などの医療保護事業で補われることとなった


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社会福祉士及び介護福祉士法

*続き・用語解説は下記をクリック
キリスト教社会事業、 留岡幸助、 山室軍平、 平民之福音、
日本救世軍、 賀川豊彦、 監獄改良、 
廃娼運動、 家庭学校、 
感化救済事業、 隣保相扶、 恤救規則、
人民相互ノ情誼、 五人組制度、 家制度 など




■用語解説:キリスト教社会事業
 キリスト教の信仰を基盤に,主に教会を中心として実践される社会事業。明治期に入って多くのクリスチャンが近代社会事業の実践家として活躍した。事業内容は,児童保護,監獄改良,医療保護,廃娼運動,禁酒運動,隣保運動などであった。

◎留岡幸助
 同志社神学校を卒業後,牧師を経て,北海道空知の集治監(監獄)教誨師となる。その際,幼年犯の処遇改良の必要性を感じ,1894年,アメリカのコンコルド感化監獄で研修。帰国後,1899年,東京巣鴨に私立の感化施設「巣鴨家庭学校」を創設。1914年,北海道遠軽に「北海道家庭学校」を創設。
 キリスト教精神に基づき「徳育、知育」といった教育を重んじ、農業や木工などの労働により人間形成を目指した。自然的環境の中に配置した15人以内の子どもと、両親の代替である男女のスタッフを置き、家庭的雰囲気を重視した施設経営が行なわれた。
 その後、北海道北見、また茅ヶ崎に分校を設置し、本校は杉並区に移転。戦後、本校は養護施設に転換。1968年に北海道家庭学校が独立し、創立時の伝統を受け継いでいる。

◎山室軍平 (1872-1940) : 明治・大正・昭和初期の社会事業家。岡山県出身。同志社において神学を学び,1895年に日本救世軍に参加。以後,日本救世軍司令官,救世軍中将として救世軍の発展に尽力し,日本のキリスト教社会事業の開拓的役割を果たした。
 [主著] 『平民之福音』 1899

■用語解説:賀川豊彦  (1888-1960) 神戸市出身で,明治学院神学部予科・神戸神学校を卒業。その後,アメリカに学ぶ。
 1909年、キリスト教の伝道者として神戸新川の貧民街で伝道に努めるとともに,キリスト教社会事業家としてセツルメント活動を行う。また,労働組合,農民組合,生活協同組合運動などでも多彩な活躍をした。
多数の著作があり,『死線を越えて』(1920)はベストセラーとなった。

■感化救済事業
 感化救済事業の特徴は,貧困や失業を社会問題として捉えず,個人の能力的・性格的な問題と捉え,道徳や教育的視点からこれに対応する点にある。わが国の歴史では,1908年の感化法改正により,各地に感化院が設置され,また内務省が感化救済事業講習会を開催したことを契機に,感化救済事業ということばが使われるようになった。その後1910年代後半あたりまでが,感化救済事業の段階と理解される。

■用語解説:隣保相扶
◎隣保相扶とは、村落共同体を中心とした相互扶助思想をいう。公的救済概念が発生する以前の,人々の自然の発露としての救済思想を基盤にした相互扶助である。1874年に制定された恤救規則は,前文に「人民相互ノ情誼」を掲げ,隣保相扶を公的な救済の前提条件とした。江戸時代の五人組制度,戦時下の隣組制度などもその一形態である。

■用語解説:家制度
 家制度とは、主として明治民法下での直系家族制度を指す。長男が家督相続をすることにより、同居による親の老後保障を引き受けることや、親が生んで育てた「恩」を子は「孝」という行いで返すといった世代的な相互利得の思想も一つの要素である。
by yrx04167 | 2013-01-24 08:11 | Comments(0)