2018年 06月 19日 ( 1 )

 生活保護行政と日雇労働者、ドヤ街、寄せ場、簡易宿泊所、飯場 生活困窮者支援とは。当ブログ筆者の20年間の実践をふまえて解説。
 公的扶助分野全般に、特に生活保護受給者やホームレスを含む生活困窮者に深く関わる簡易宿泊所街(ドヤ街)、日雇労働者の寄せ場は深く関わる。
 都市の貧困問題に関連する事柄ではあるが、各社の社会福祉士テキスト(低所得者支援と生活保護制度等)には十分に解説されていない。
 生活困窮者支援や生活保護等、相談の実務に、貧困問題の理解に必須の知識といえるこれらの領域について、当ブログ筆者の 担当講義において概要を解説した。

1.ドヤ街、簡易宿泊所、寄せ場とは 日本の貧困問題の基盤
 簡易宿泊所が集中し、日雇労働市場である「寄せ場」を含む地域を通称「ドヤ街」という。
 今日、「寿町」(横浜市中区)等の簡易宿泊所地域には、高齢者や障害者、精神疾患等生活保護受給者、土木建築を中心とする日雇労働者が一時的か、多くは半定住的に宿泊している。かつてドヤ街は日雇労働者の家族、子どもも居住し、日雇労働の分野も寿町や釜ヶ崎(あいりん地区)では港湾労働も多かった。

*簡易宿泊所とは 社会福祉法の「無料低額宿泊所」ではない
 「簡易宿泊所」とは、旅館業法における4種(ホテル、旅館、簡易宿所、下宿)の旅館営業許可業種のうちのひとつである。
 同法第二条 3 「この法律で「簡易宿所営業」とは、宿泊する場所を多数人で共用する構造及び設備を主とする施設を設け、宿泊料を受けて、人を宿泊させる営業で、下宿営業以外のものをいう」
 社会福祉法の第二種事業の「無料低額宿泊所」(「生計困難者に対して、その住居で衣食その他日常の生活必需品若しくはこれに要する金銭を与え、又は生活に関する相談に応ずる事業」)とは別のものである。無料低額宿泊所は、NPO等が運営し、ホームレスなど生活困窮者の居住の場の一つとして役割を担っている。先進的な生活支援に取り組むNPOの活動もみられるが、課題のある宿泊所も存在した。

*ドヤ街 語源等
 簡易宿泊所街は、「ドヤ街」とも言われているが、ドヤは、宿の逆語であり、旅館やホテルと区別された、日雇労働者の簡易宿泊所を意味する。
 簡易宿泊所街は寿町(横浜市中区)の他、東京(台東区・荒川区)の「山谷」や、大阪(西成区)の「釜ヶ崎」(行政は「あいりん地区」と称する)が同様のドヤ街であり、名古屋市(中村区)「笹島」、川崎、福岡等には日雇労働市場「寄せ場」が存在する。
 こうした地域はまた、「寄せ場」とも言う。寄せ場は、大都市内のドヤの密集地域に位置づく日雇労働者の就労場所をいう。寄せ場では手配師等による求人(相対方式)も常態化している。
 青木(1989)によれば、多くの場合、寄せ場は、周辺スラムとともに複合地域を形成する。寄せ場は、日雇労働者が集まる都市下層地域として、固有の社会と文化(生活様式)をもっているとも言われている。 青木秀男『寄せ場労働者の生と死』 明石書店,1989年

2.「山谷」とは 山谷フィールドワークをふまえて
 台東区と荒川区にまたがる山谷地域は、首都圏・東京都最大の寄せ場であり、ドヤ街が形成されている。かつては、都内には高田馬場等にも寄せ場と簡易宿泊所が存在していた
 山谷地域は、江戸時代には木賃宿等の地域であり、明治以降は労働者が居住していた。
 戦後、空襲の焼け跡の被災者援護のテント村(宿泊所)の集中地域を経て、多数の簡易宿泊所が建設されていった。
 山谷地域の簡易宿泊所(190軒弱)の宿泊者は、1960年代には1万人を超え、家族での居住も少なくなかった。その後、家族への住宅斡旋が行われ,1970年代には単身男性への純化傾向が進んだ(他のドヤ街も同様)。
 また,オイルショック,1990年代の不況を経て、日雇労働者の寄せ場からの就労経路が衰退し,宿泊者も5000人前後と減少した。高齢者が主要な宿泊者となった。高齢者として生活保護を受給している宿泊者も増加し、50歳代の失業者はホームレスへと移行し、隅田川周辺等で野宿生活を送っている。
 加えて、講義において、山谷におけるホスピス「きぼうのいえ」の文献等を回覧しライフヒストリーの概要を解説した。
 またファウラーの「山谷ブルース」等の文献から、民間支援活動の特徴について概説した。

3.釜ヶ崎(あいりん地区)
 190軒程の簡易宿泊所に、約2万人が宿泊(もしくは寄せ場から就労)、日本最大の寄せ場,ドヤ街である。しかし釜ヶ崎という地名はなく西成区萩之茶屋を中心とする。1966年の第五次釜ヶ崎暴動以降,大阪府・市・府警により「あいりん地区」の呼称が使われるようになり,行政機関や報道が用いている。約2万人の日雇労働者が生活しているといわれている。阪神地区の労働市場の産業予備軍、雇用の調整弁として機能してきたが,オイルショック,1990年代の不況を経て,日雇労働者の寄せ場としての機能は衰退しつつある。他の寄せ場と同しく,高齢化が著しい。
 釜ヶ崎地域の特徴としては、生活保護受給者へのサポーティブ・ハウジングや、ホームレス対象のシェルター、就労支援プログラム等が行われている。また地域内外の子どもへの支援も民間団体によって続けれており、子どもが担うホームレスへのアウトリーチ活動、交流と学習活動でもある「こども夜回り」等、先進的な取り組みが行われている。

*簡易宿泊所街・寿町の誕生=1956年
 「寿町」地域とは、横浜市中区の簡易宿泊所街である。上記の記事を参照。
 終戦後、寿町を含む一帯は、米軍によって接収された。一方、横浜港は、軍貨の集積と殻物輸人港として活況を呈し、失業者が仕事を求めて流入した。横浜公共職業安定所と横浜労働出張所があった、桜木町駅周辺、野毛地区には、これらの人々が溢れた。人々は、運河に浮かぶ、はしけ等を改造した「水上ホテル」等に宿泊していた。
米軍は、寿町一帯の接収を、昭和30 (1955)年頃までに解除した(解除時期は諸説がある)。
 昭和31(1956)年、寿町に最初の簡易宿泊所の建築申請が行なわれた。以降、「水上ホテル」は徐々に姿を消し、寿町に簡易宿泊所が建築された。昭和32(1957)年、横浜港公共職業安定所(日雇扱い)が、桜木町駅前から寿町に移転した。それを契機として、寿町地区は、横浜港に近い立地条件等も要因となり、1956年は5軒、57年9軒、58年1軒、59年7軒、60年12軒と簡易宿泊所の建築申請が次々と行なわれた。1961年(昭和36)10月の時点で、簡易宿泊所数は49軒、部屋数は3189室であった。宿泊者数は5141人であり、そのうち単身世帯は3477人、家族世帯が704世帯、1166人であった。また宿泊者のうち、生活保護を受給している世帯は、単身世帯が37人、家族世帯が56世帯、192人であった。
 簡易宿泊所街としての寿町は、1956年の誕生から約5年でその基礎が形成されたと言える。
 しかし、簡易宿泊所街の誕生から後述の1962年まで、公的な支援施策も、また民間による支援活動も無い時期が続いた。

2 寿町の子ども支援活動の開始 未就学児問題、子ども会活動、売血
 1960 (昭和35) 年10月9日付の神奈川新聞の記事は、寿町には未就学児が約50人存在し、市は無策であると報じた。神奈川新聞は、翌1961年には「戸籍のない子を救おう」(5月5日付)と報じた。形成されつつある寿町に関して、児童は救済すべきという世論が推し測れる。同年、寿町内での火災発生や、横浜血液銀行が寿町に移転し、売血の蔓延等もあり、環境の悪化が進んだ。1963年には、簡易宿泊所内での集団赤痢が発生している。

*横浜市青少年相談センターと市職員ボランティアによる子ども会活動
 寿町における福祉行政による施策は、昭和37(1962)年からの中民生安定所の夜間出張相談、翌1963年の「横浜市青少年相談センター」開設により開始された。
 一方、昭和39(1964)年、同センターの若手職員の自主的な実践である「子ども会 ぼっこ」の活動開始が、民間支援活動のはじまりとなった。
 子ども会「ぼっこ」は、行事を軸とした子ども会活動に始まり、会食、キャンプ、スポーツ大会、クリスマスパーティ、子ども会新聞等の活動を展開していった。

*「寿生活館」セツルメントハウスの設置
 昭和40(1965)年、横浜市の隣保施設「寿生活館」が設置され、寿町における福祉行政と民間支援活動の拠点となっていった。
 1972年6月には、寿生活館の3・4階増築部分がオープンした。
 1973年5月、寿生活館は、子ども対象の「絵の教室」と「そろばん教室」を開始した。以降、寿生活館主催の行事のなかに、子ども会活動は吸収されていく 。

 野本三吉は、市職員として寿生活館のケースワーカーの一人となった。
 本書では、寿町の簡易宿泊所に住み込んだ野本(他にも市職員が住み込み支援活動を展開した)の、コミュニティによる子育ての実践と思想の記録である。
 野本の理念は、簡易宿泊所街「寿町」における、コミュニティが子どもを育てる。それは、地域と子どもと大人の関わりの思想でもある。
 野本三吉の(簡易宿泊所の)部屋を訪れる寿町の子どもと大人の人間らしさが文章から伝わってくる。セツルメントとしての側面がある。
 時に野本と労働者・住民・子どもは真正面からぶつかり合う、人間対人間の対等な関係性である。セツルメントが持つ人間的交流を含む。
 日雇労働者父子世帯の事例が挙げられてている。父は夜遅くまで飲み屋に子ども連れ回し、あげく泥酔した父の世話を子どもが焼く。この生活は、社会福祉や教育の専門職との摩擦を生じる。頑固な父が労働者の逞しさを伝えていくが、愛情深さがその根幹にある。野本は、「狩猟民の生活」と称し、かつての非定住狩猟民の逞しさ、生き方、文化を重ね合わせる。
 また、親の病気による家族と生活の不安定、シンナー等の依存症のリスクが事例との関わりから述べられている。家族の不安定は、食生活の質と量の貧困をもたらす
 印象深いのは、不登校傾向の少年が寿町に滞在した際に、日雇労働者の青年が仕事に連れていったり面倒を見るエピソードがある。別れが近くなり、労働者の青年は社会の不正義は許せない、社会の不正を正すため「本当の学問をやれ」と少年に労働者の青年は語りかけ、沖縄海洋博関連の工事に仕事師として出立する。
 また簡易宿泊所街の少女は、生活保護世帯で育ち、生活と環境の影響を受けながら成長していく。様々な大人の只中で、自分の心身を大切にして生きていけるのかが課題となってしまう。
 加えて、簡易宿泊所の環境よりも、自ら児童養護施設への入所を希望する子ども、問題行動を起こして少年院送致になる寿町の少年などの事例も挙げられている。

 1973年8月、寿町における子ども食堂の開始
 この本のなかにも、寿町において1973年の夏休みの子どもの食生活を支えるために行われた「子ども食堂」の記述がある。
 1973年7月14日、17日、22日に寿町の母親たち、横浜市寿生活館職員等を中心に準備会議。23日に食材買い出し。
 1973年7月24日、子ども食堂第一回を、地域内のバプテスト教会(益牧師)を会場に実施し30名を超える子どもたちが集まる。午後は子どもたちを根岸のプールに連れて行く。
 夏休みの期間、継続する。
 8月31日、夏休み子ども食堂最終日。
 1973年9月2日 夏休み子ども食堂反省会。以降、毎週土曜日の開催を決定する。
 詳しくは、後日、報告したい。

*ことぶき共同保育 子どもと家族のコミュニティ 
 1973年9月に開始された「ことぶき共同保育」は、時間を限定した保育の取り組みとは異なり、支援者が寿町に居住と生活の場を置く、セツルメント的な活動の、寿町における確立であった。また、支援者とその家族、寿町の子どもの共同体という面もある。

 1973年7月には、寿町の日雇労働者の集まりである「寿立会」が活動を開始した。同年12月には、その寿立会と寿町自治会の共同による越冬闘争が行われた。この時期、1973年のオイルショックにより、寿町は不況の影響が甚大となっていく。このような状況下、ソーシャルアクションが展開されていく。1974年11月には、 越冬実行委員会が横浜市民生局との団体交渉を行なっている。

*飯場の労働と生活については、「飯場へ」を回覧しながら、解説した。
 従来から「飯場」は、日雇労働と併せて、貧困・生活困窮者支援、生活保護受給者にとって深く関わる就労の場であった。
 寄せ場を経由する飯場への就労、「駅手配」などと呼ばれる駅周辺の路上求人からの就労、「人夫出し(飯場)」と呼ばれる様々な工事現場への労働者派遣型(労働者をプールする飯場)等、特徴的な就労の場である。
 渡辺の飯場への参与観察、インタビューによる質的研究は、今日の飯場が、真面目に働く労働者を経営側も求め、飯場に定着している労働者たちも求めている等の特徴がまとめられている。
 若年の生活困窮者にとって、飯場は就労と住まい、食事等がセットになった開放的労働市場の一つであったが、今日、「真面目さ」、土木建築労働や飯場の生活スタイル、人間関係への適応が求められている=誰にとっても開放されているわけではないことが分かる。

公的扶助論 生活保護制度の解説 続き
1.福祉事務所と生活保護制度
・社会福祉法第14条に規定された,社会福祉全般に関する相談や給付等の実務(現業)を行う第一線の相談機関である。14条の「福祉に関する事務所」をいう。
 福祉事務所は地域における、社会福祉行政の要、フロントラインと言える。

*福祉事務所は、都道府県・市・特別区は必置である。
 都道府県及び市(特別区を含む)は福祉事務所の設置が義務付けられている(=義務設置)

*町村は任意設置
 町村は任意で設置することができる。
 つまり日本には、いずれの福祉事務所の所管区域にも属さない区域はない。

社会福祉法第十四条 都道府県及び市(特別区を含む。以下同じ。)は、条例で、福祉に関する事務所を設置しなければならない。
2 都道府県及び市は、その区域(都道府県にあつては、市及び福祉に関する事務所を設ける町村の区域を除く。)をいずれかの福祉に関する事務所の所管区域としなければならない。
3 町村は、条例で、その区域を所管区域とする福祉に関する事務所を設置することができる
4 町村は、必要がある場合には、地方自治法の規定により一部事務組合又は広域連合を設けて、前項の事務所を設置することができる。この場合には、当該一部事務組合又は広域連合内の町村の区域をもつて、事務所の所管区域とする。
5 都道府県の設置する福祉に関する事務所は、生活保護法、児童福祉法及び母子及び父子並びに寡婦福祉法に定める援護又は育成の措置に関する事務のうち都道府県が処理することとされているものをつかさどるところとする。
6 市町村(特別区を含む。以下同じ。)の設置する福祉に関する事務所は、生活保護法、児童福祉法、母子及び父子並びに寡婦福祉法、老人福祉法、身体障害者福祉法及び知的障害者福祉法に定める援護、育成又は更生の措置に関する事務のうち市町村が処理することとされているもの(政令で定めるものを除く。)をつかさどるところとする。 略

*福祉事務所の組織
 職員体制は、所長、指導監督(スーパーバイザー)、現業員(ケースワーカー)、事務

(組織)
第十五条 福祉に関する事務所には、長及び少なくとも次の所員を置かなければならない。ただし、所の長が、その職務の遂行に支障がない場合において、自ら現業事務の指導監督を行うときは、第一号の所員を置くことを要しない。
一 指導監督を行う所員
二 現業を行う所員
三 事務を行う所員
2 所の長は、都道府県知事又は市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の指揮監督を受けて、所務を掌理する。
3 指導監督を行う所員は、所の長の指揮監督を受けて、現業事務の指導監督をつかさどる。
4 現業を行う所員は、所の長の指揮監督を受けて、援護、育成又は更生の措置を要する者等の家庭を訪問し、又は訪問しないで、これらの者に面接し、本人の資産、環境等を調査し、保護その他の措置の必要の有無及びその種類を判断し、本人に対し生活指導を行う等の事務をつかさどる。
5 事務を行う所員は、所の長の指揮監督を受けて、所の庶務をつかさどる。
6 第一項第一号及び第二号の所員は、社会福祉主事でなければならない。

*解説:福祉六法
 生活保護法(1950年),児童福祉法(1947年),身体障害者福祉法(1949年),精神薄弱者福祉法(1960年。99年から知的障害者福祉法),老人福祉法(1963年),母子福祉法(1964年。81年から母子及び寡婦福祉法、現在の母子及び父子並びに寡婦福祉法)を総称して「福祉六法」。

*福祉三法
 戦後、緊急性のある問題(戦後の緊急課題として、生活困窮、戦災孤児、傷痍軍人等)として、昭和20年代に立法化された旧生活保護法(1946年),児童福祉法,身体障害者福祉法の三つの法律を「福祉三法」と称する。その時期は「三法時代」。

*参考:傷痍軍人
 戦闘または軍の公務によって負傷,または発病した軍人。
 世界各国で,戦傷病軍人に対しては特別の保護が与えられている。

*軍事援護事業
 陸軍士官兵卒給俸諸定例(1871年),
瑕疵 (かし) 兵卒家族救助令(1904年),
廃兵院法(1906年),
軍事救護法(1917年),
軍事扶助法(1937年,軍事救護法の改正)など。

*廃兵院  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
・(各国においては)戦傷を受けて,生活能力を失った軍人を収容した施設。 1676年フランスのルイ 14世が,特定施設に収容し保護したのが始りという。
 日本では,日露戦争の際,1万 7000人の傷兵を出したことを契機に,1906年東京予備院渋谷分院に設置され,翌年豊島区巣鴨町に移転。その後,厚生省所管の傷兵保護院と改称,第2次世界大戦の敗戦とともに廃止。

<解説 福祉事務所等の歴史 概要>
1945年12月 生活困窮者緊急生活援護要綱
 1945年12月,占領軍(GHQ)からの「救済ならびに福祉計画の件」(SCAPIN 404号)に基づき,戦災者(海外引揚者・在外者留守家族・傷痍軍人とその家族・遺族)や、失業者,その家族を含む生活困窮者への救済を計画的に行うために閣議決定された要綱である。宿泊(施設収容),給食・生活必要品などの現物の給付,生業の斡旋等を,都道府県の計画に基づき,市町村単位で実施することを規定した。

1946年2月、SCAPIN 775号
 SCAPINとは,Supreme Commander for the Allied Powers Instructionの略、連合国最高司令官指令。
 775号は,1946年2月27日に出された公的扶助3原則の指令である。
 GHQは,保護の無差別平等,扶助の国家責任の明確化,最低生活保障の3原則を日本政府に指令した。これらの3原則は、後の生活保護法に原理・原則として組み込まれた。 略

 敗戦後の窮乏と混乱の状態にある国民生活に対する対策についても,占領軍の政策に従う必要があった。戦後のわが国の社会福祉政策の基盤は,ほとんどGHQの指令を通して形成されたといえる。(有斐閣 現代社会福祉辞典)

昭和21(1946)年
 1月4日 GHQが公職追放を指令
2月13日 GHQが憲法改正に関する草案を日本政府へ手交
3月6日 日本政府が「憲法改正草案要綱」発表
5月22日 第1次吉田茂内閣成立

1946(昭和21)年11月3日、日本国憲法公布
 
1946(昭和21)年、「旧生活保護法」制定
 (保護国家責任・無差別平等・最低生活保障など占領軍指令を取り入れるが、素行不良者は不適格などは救護法を引き継ぐ)
旧生活保護法 1946 昭和21年9月9日法律第17号。
 第二次世界大戦後最初に制定された公的扶助法(昭和21年法律17号)。
 無差別平等原則(1条)を規定したが,他方,保護請求権を明記せず,労働能力のある者(労働の意思のない者,労働懈怠 (けたい) 者,素行不良の者),扶養義務者のある者を保護から排除する制限扶助主義を残した(2条・3条)。最低生活保障の規定もなく,民生委員を補助機関とするなど,近代的公的扶助法として不十分なため,1950年に全面改正により現行生活保護法が成立した。
 旧生活保護法 抜粋
第1条 この法律は、生活の保護を要する状態にある者の生活を、國が差別的叉は優先的な取扱をなすことなく平等に保護して、社會の福祉を増進することを目的とする。
第 2条 左の各号の一に該当する者には、この法律による保護は、これをなさない。
 一  能力があるにもかかわらず、勤労の意思のない者、勤労を怠る者その他生計の維持に努めない者
 二  素行不良な者
第5條 民生委員令による民生委員は、命令の定めるところにより、保護事務に關して市町村長を補助する。

*共同募金community chest 有斐閣『現代社会福祉辞典』2003
 1947年から開始された「赤い羽根」をシンボルとした募金活動。国民の助け合いの精神を基調とし,民間社会福祉活動の資金援助を目的としている。制度的には,社会福祉法で規定されており,第一種社会福祉事業である。略

(1948年2月 孤児院エリザベス・サンダース・ホームの設立)
 三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜が、岩崎家大磯別邸において、「混血孤児」のための孤児院として設立した。
1953年、学校法人聖ステパノ学園を併設。

1947(昭和22)年、児童福祉法 制定
1949(昭和24)年、身体障害者福祉法 制定
1950(昭和25)年、現行(新)生活保護法 制定 

民生委員法 昭和23年法律198号。

1950(昭和25)年、ケースワーカーとして「社会福祉主事」が制度化
 昭和25年5月「社会福祉主事の設置に関する法律」が制定

1951(昭和26)年、社会福祉事業法(現・社会福祉法)制定
(第1種2種の社会福祉事業制限列挙、社会福祉を援護・育成・更生などの福祉サービスに限定、社会福祉法人創設、福祉事務所の設置、社会福祉協議会設置、民生委員は協力機関に)
 10月、福祉事務所発足(民生安定所改組) 社会福祉主事は福祉事務所に専任職として配置。

1951年、社会福祉協議会の設立
 成り立ちは,第二次世界大戦後のGHQによる社会福祉における公私分離政策に基づく民間社会福祉事業の育成策の一環。
 具体的には,GHQの指導を受けた厚生省(当時)により,旧関連団体である日本社会事業協会,全日本民生委員連盟,同胞援護会等の団体が統合され,中央社会福祉協議会(後の全国社会福祉協議会)が1951年に設立されたのが始まり。

用語解説:社会福祉協議会
 地域住民と公私の社会福祉機関・団体より構成された民間組織。根拠法は社会福祉法。

・1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて、占領軍の指導のもと行われたグループワーク講習会。 

*実施機関等
・「実施機関」とは、都道府県知事、市長、福祉事務所を管理(設置)する町村の長
⇒生活保護法実施のための現業機関として福祉事務所(「福祉に関する事務所」)を設置し、保護の決定、実施等に関する権限を福祉事務所長に委任-保護の開始、変更、停止、廃止、被保護者への指導又は指示に関する権限を委任されているのは、福祉事務所長である。

・「居住地保護」と、「現在地保護」
 現在地保護とは、現在、存在している地域で保護の給付を行う。通常は,居住地で保護を行う。しかし、居住地が無いか定かでない,あるいは居住地があるが急迫した事由による場合においては,現在地で給付を行い,実施責任を現在地所管の実施機関が行っている。

生活保護法(実施機関)
第十九条 都道府県知事、市長及び社会福祉法(昭和二十六年法律第四十五号)に規定する福祉に関する事務所(以下「福祉事務所」という。)を管理する町村長は、次に掲げる者に対して、この法律の定めるところにより、保護を決定し、かつ、実施しなければならない。
一 その管理に属する福祉事務所の所管区域内に居住地を有する要保護者
二 居住地がないか、又は明らかでない要保護者であつて、その管理に属する福祉事務所の所管区域内に現在地を有するもの
2 居住地が明らかである要保護者であつても、その者が急迫した状況にあるときは、その急迫した事由が止むまでは、その者に対する保護は、前項の規定にかかわらず、その者の現在地を所管する福祉事務所を管理する都道府県知事又は市町村長が行うものとする。
 略
4 前三項の規定により保護を行うべき者(以下「保護の実施機関」という。)は、保護の決定及び実施に関する事務の全部又は一部を、その管理に属する行政庁に限り、委任することができる。
5 保護の実施機関は、保護の決定及び実施に関する事務の一部を、政令の定めるところにより、他の保護の実施機関に委託して行うことを妨げない。 略 ここまで

・福祉事務所を設置しない町村長には次の役割がある(生活保護法第19条)。
 一、急迫した事由のある要保護者に対して、応急的処置として必要な保護を行う。
 二、保護者を発見し、又は被保護者の生計その他の状況の変動を発見した場合に実施機関又は福祉事務所所長に通報する。
 三、保護の開始または変更の申請があった場合に、これを実施機関に送付する。
 四、実施機関又は福祉事務所所長からの求めに応じて被保護者等に対して保護金品を交付する。
 五、保護の実施機関又は福祉事務所長から求められた場合において、要保護者に関する調査を行う。

以上は、国立武蔵野学院 附属児童自立支援専門員養成所にて、当ブログ筆者の  担当講義のレジュメ、講義の概要より
 HPより引用「児童自立支援専門員養成所とは。非行などの問題を抱える子どもや、虐待などの理由により支援が必要な子どもたちと施設での生活を共にしながら、資格取得に向けて学ぶところです。
 国立武蔵野学院は、大正8年 (1919年) 3月に開設された児童自立支援施設です」
 児童自立支援専門員とは、児童自立支援施設において,生活指導,家庭環境調整等,ソーシャルワークによって、児童の自立を支援する専門職である。国立武蔵野学院に附属児童自立支援専門員養成所が設置されている。


当ブログ筆者の 論文 リンク

関屋光泰(2010)「簡易宿泊所街・横浜寿町地域における民間支援活動-歴史的経緯の概要」『研究紀要』第18 巻第1 号 学校法人敬心学園日本福祉教育専門学校福祉文化研究所,39-48頁


ブログ筆者の新刊 社会福祉士国家試験過去問解説集 第30回社会福祉士国家試験問題解説を執筆 中央法規出版


当ブログ筆者執筆
精神保健福祉援助演習(専門)第2版
精神保健福祉士シリーズ 10
福祉臨床シリーズ編集委員会 編

ISBN978-4-335-61117-9
発行日 2016/02/22 弘文堂

第8章 地域における精神保健問題(依存症と生活困窮)


朝日新聞に関屋光泰コメント掲載 福祉施設介護職員のストレスケアと施設のリスク


公的扶助論 講義概要6 被保護者の権利と義務、不利益変更の禁止、勤労、節約、費用返還義務とは 子ども食堂補助金、調査結果



<参考 第2回 子どもの貧困を考える映画会>
日時:2018年7月16日(月・祝)10時00分~16時20分(9時30分開場)

<最寄り駅>JR中央線、武蔵野線 西国分寺駅南口 徒歩7分
<住所>国分寺市泉町2-2-26  <TEL>042-359-4020

参加費 500円(可能な方から・学生無料)
申込み不要

2回上映・出入自由 映画上映中の入退場はご遠慮下さい。

「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワークでは、市民の皆様に「子どもの貧困」について広く・深く考えて頂く機会として、この映画会を企画致しました。
 今回の映画会では、第69回カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞した、『わたしは、ダニエル・ブレイク』 (2016年イギリス/2017年日本公開)を2回上映致します。

プログラム(予定)
9:30 開場
10:00 開会
10:10 『わたしは、ダニエル・ブレイク』第1回上映(~11:50)
11:50 休憩(~12:50)
12:50 トークセッション(~14:20)
     ”声をあげる”~
     『わたしは、ダニエル・ブレイク』に学ぶ貧困問題
     <ゲスト>
     猪熊弘子(ジャーナリスト)氏
     稲葉剛氏(つくろい東京ファンド代表、立教大学特任教授)
     <コーディネーター>
     中塚久美子氏(朝日新聞記者)
14:20 休憩(~14:30)
14:30 『わたしは、ダニエル・ブレイク』第2回上映(~16:10)
16:20 閉会


[PR]